公開日 2025年05月19日
更新日 2025年09月10日
1 概要・編集方針
令和6年4月から考古部会が立ち上がりました。現行の『高知県史考古編』では、先土器時代・縄文時代・弥
生時代・古墳時代・有史時代の5つの章に分けて、各時代や段階について、高知県独自の文化や様相に焦点を当
てながら記述されています。新たな『高知県史考古編』では、刊行後の埋蔵文化財調査や研究の成果を含めて叙
述します。
資料編:現行県史の刊行以降に蓄積されてきた調査、そして研究の成果を総括し、それらについて、現時点で
の価値付けを図ることで、地域の貴重な社会的資源であることを明らかにする
本 編:資料編での総括を踏まえ、調査と研究の進展により期待される新たな知見と資料編を総合した解釈に
基づき、新たな県史を叙述
編集方針はこちら > 考古部会編集方針[PDF:140KB]
●考古部会委員一覧
(分野) | (氏名) | (所属) |
部会長 | 鋤柄 俊夫 | 同志社大学文化財保護研究センター 嘱託研究員 |
副部会長 | 松田 直則 | 県立歴史民俗資料館 副館長 |
近世 | 追川 𠮷夫 | 東京大学埋蔵文化財研究室 助手 |
古代 | 大橋 泰夫 | 島根大学名誉教授 |
古墳 |
清家 章 |
岡山大学学術研究院社会文化科学学域 大学院社会文化科学研究科・文学部 教授 |
旧石器 ~縄文 |
水ノ江 和同 | 同志社大学文学部 教授 |
弥生 | 宮里 修 | 高知大学人文社会科学部 教授 |
中世 | 吉成 承三 | 県立埋蔵文化財センター 調査課長 |
県内に広く分布する様々な時代の遺跡や遺物の新たな意味や価値をお伝えできるよう調査を進めて参ります。
2 部会活動の様子
○令和7年5月 現地調査実施 (調査場所:宿毛市沖の島)
島の山中には、約900年前に伊豆から落ちのびてきたと伝わる三浦一族の墓とされるものがあり、それらと一族の伝承に関する基礎調査を行いました。
○令和6年の調査結果(四万十市 タキモト城跡)
四万十市の川登に、塩塚城跡が所在しています。昭和61年に実施された塩塚城跡の発掘調査報告書では、本城は里の城でこれに対してタキモト城は里の城の出城と考えられており、二つの城を塩塚城と言っています。里の城からタキモト城へは、丘陵伝いに移動することが可能で、タキモト城の方が高所(標高90m)にあり、タキモト城から里の城(標高50m)全体を一望することが可能であると報告書で述べられていますが、はたして里の城とタキモト城跡は同時期に機能していたのだろうかと疑問に思いました。里の城は、発掘調査で年代をある程度推測できる遺物が出土しているためわかりますが、発掘調査されていないタキモト城跡は、同時期に機能したといえる根拠があるのだろうかと思い、タキモト城跡に触れてある史料をあたってみました。
中村市史では、塩塚村の項に塩塚城の記載があり、敷地氏の出城(今の川登分岐の城ノハナ)であったが、長宗我部の天正時代には奥宮織部が封ぜられた居住したとあります。なお、「敷地氏の古城は別途現在の金毘羅山頂に重心陣地のようにあったとされている」と括弧書きで記されており、この金毘羅山頂の陣地がタキモト城跡の可能性が考えられます。南路志では、塩塚瀧森城の名前で記載されており、古城記伝では敷地民部小輔藤安居之とあり、元々は敷地氏の城であったことは知ることができます。さらに気になるのが次の記載です。「元親須崎より東之諸侍を催し、同九年九月中村へ攻来る。霜月たんまつの城を攻おとし、一条殿は北之山傳ひに塩塚の城へ御のき候。多く敗軍いたし、塩塚の城へ上下三百人籠申候」とあり、同九年が天正九年なのか怪しいところですが、里の城とタキモト城がこの時期に機能していたことがわかります。元親が攻めてくるとしたら天正2年か3年頃と考えられ、その時期に塩塚城が機能していた可能性もあります。里の城での発掘調査で出土した遺物の考察では、16世紀前半代までのものが確認されているので、考古学的には16世紀後半の様子は不明です。
それでは、タキモト城跡の縄張りを見てみることにします。タキモト城跡は、南北100m、東西70m程の規模で、南北丘陵上に連続して曲輪を配置しています。主郭曲輪のⅠは、南北30m、東西13mほどを測り、市史にも記載されている金毘羅宮が鎮座しています。神社建築のため、入口部から中央部にかけて削平されており土塁状に見える部分がありますが、主郭には土塁は構築されていないと考えられます。その北側のⅡ曲輪は、10×10mほどの一段下がった小規模な曲輪で一連の曲輪としてもよいくらいです。その北側には2m程下がった曲輪Ⅲが構築されており、南北約20m東西幅は南側がやや広く15m程の規模を有しています。北側には、一段高くなっている場所があり櫓台にしているところが面白いです。そこから北側尾根には切岸も含めて2重の堀切が構えられており、北側尾根からの攻撃に備えていて櫓台と連動して防御の要となっています。2重の堀切は西側に長く伸びており竪堀になっています。Ⅰ・Ⅱ曲輪の西側下段には、南北25m程の帯曲輪が構築されていまして、曲輪全体の西側斜面には連続竪堀も構築されており斜面移動ができないように縄張りされています。東側は急峻な自然地形で竪堀群は確認できません。タキモト城跡の縄張りの特徴として、西側斜面に構築されてある連続竪堀があげられます。3本以上の連続した竪堀を、畝状竪堀群とも呼ばれて全国的にも研究されています。私は、畝状竪堀群と呼ばず連続竪堀と表現し説明をしていますが、九州ではこれらの連続竪堀が境目の城に多く用いられていることが指摘されています。土佐清水市でも、境目の城に連続竪堀が採用されていることが、市史編さんで行われた悉皆調査で確認されています。土佐清水市の事例からすると、四万十市でも連続竪堀が使われている城は、境目の城として意識された城ではないかと思われます。このタキモト城跡も、もちろん境目の城として築かれて機能したものと考えられます。
南路志などに記載されている長宗我部氏が攻めてきたときに、「一条殿が北之山傳ひに塩塚の城へ御のき」という城はタキモト城跡の可能性があり、その時にはすでに連続竪堀も構築されていたと考えてもよさそうです。里の城が、もともと敷地氏の出城で出土遺物からみると15世紀後半ごろから機能していたと考えています。そして、一条氏の家臣である敷地氏が、16世紀に入ってから明確な時期はわかりませんが、境目の城として連続竪堀を駆使してタキモト城を構築したのではないかと思っています。
○部会長のブログはこちら > 遺跡の見方と歩き方
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