公開日 2016年09月01日
戦国時代、土佐は多くの勢力が群雄割拠していた。その中で土佐を統一そして、四国をも統一した長宗我部氏とそのライバル達を紹介。
土佐の七雄とは
七雄・七守護とは本山(もとやま)氏・安芸(あき)氏・大平(おおひら)氏・津野(つの)氏・吉良(きら)氏・香宗我部(こうそかべ)氏(山田(やまだ)氏のときもあり)・長宗我部(ちょうそかべ)氏のこと。別格として公家大名の一条氏がいる。
所領としての規模は一条氏が一番大きく、七雄の中では長宗我部氏が一番勢力的には弱い立場であった。
長宗我部氏 |
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長宗我部氏のルーツは一説には、蘇我氏一門の子孫説や秦の始皇帝説が言われている。元々、泰氏を名乗っており平安期から、鎌倉期に掛けて土佐に移り、長岡郡宗部郷(宗我部郷)に定住し、宗我部氏を名乗った。しかし、近隣の香美郡宗我郷に同じ宗我部を名乗る一族がいたため、それぞれ郡の一文字をいれ長宗我部、香宗我部と名乗った。 |
一条氏 |
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土佐一条氏は元々関白の位にいた教房が応仁の乱を逃れ、自領の建て直しを図るため下向してきたものであった。 |
津野氏
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津野氏は延喜十三年(913)に伊予国から土佐国に入り、高岡郡梼原を開拓し、津野山を開拓していった。そして、天暦三年(949)に半山城を築いて移り、三島大明神を勧請したという。かくして、経高は名字を山内から津野に改め、康保二年(965)に死去したと伝えられている。 |
本山氏
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土佐の七雄の中で一条氏を除いて一番の勢力を誇っていた。元々の領地本山郷は山間部にあり、しだいに平野部へと進出していった。その後、長宗我部元秀を打倒することとなる本山茂宗(梅慶)が所領を広げていった。 |
安芸氏
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安芸氏の由来として壬申の乱で土佐へ流された蘇我赤兄の後裔とも、藤原氏や橘氏、さらに惟宗氏の後裔などの説がある。 安芸氏は土佐の東部地域を治めており、大きな勢力として誇っていた。だが、長宗我部氏が台頭するにつれ小競り合いが頻発するようになる。その時の当主が安芸国虎であった。国虎は長宗我部氏が本山氏を攻めているときを見計らって岡豊城を攻め最初のうちは優勢を計ったものの、背後から 長宗我部軍の援軍の攻撃により退却を余儀なくされる。 その後、和睦を結ぶも一時的なものでしかなく、長宗我部氏の攻撃と、家臣の裏切りにより国虎は自刃した。 |
大平(大比良)氏 【大平国雄、大平元国】 |
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大平氏は一条氏が下向してきた際、助力を行ったことが知られている。また、長宗我部元秀への攻撃にも加わっている。しかし、周りを一条、本山、津野、長宗我部ら強豪に囲まれ地位を守り抜くことができなかった。 |
吉良氏 【吉良宣経、吉良(長宗我部)親貞】 |
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吉良氏は南村梅軒(一説では存在が否定されている)を向かえ南学(朱子学)の元を開かせたことで有名である。本山氏の侵攻により一条氏に通じるようになったが本山氏に敗北し吉良氏は滅亡をすることとなる。 |
香宗我部氏
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もともとは、鎌倉時代に中原秋家が香美郡宗我部・深淵両郷の地頭に任命されたのが始まりで、その後地名の宗我部を名乗っていたが、隣の郡に秦氏が同じ宗我部を名乗っており、区別をつけるため郡の頭をとって香宗我部と名乗るようになった。 室町時代守護職の細川氏とむすんで勢力を伸ばしていたが、しだいに一族の統制がとれなくなり衰退していった。香宗我部親秀の時、長宗我部国親が勢力を伸ばしてきており国親の三男親泰を養子に迎え、長宗我部氏の一族になった。 |
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