公開日 2011年09月05日
更新日 2014年03月16日
永瀬ダム建設の歴史
物部川は戦前まで典型的な暴れ川でした。上流は年間3,300mmの多雨地帯であり、河床勾配が急なことも加わって一度豪雨(台風性豪雨)が来ればたちまち洪水となり、住民は多大な被害を受けていました。一方で季節的降雨は不規則であるため、渇水時には古来より農民の水争いを起こしてきました。このような状況であったため関係地域の住民達は早くから物部川の洪水防御とかんがい用水の確保を熱望していました。
そのため、物部川河水の統制と発電を企図した物部川ダム建設が大正時代(1912~1926年)より先覚者達(入交喜三郎;永瀬ダム内に記念碑あり)の運動や物部川河水統制事業期成同盟会等)により提唱されてきましたが、太平洋戦争のため実現をみるには至りませんでした。県においても昭和9年(1934年)頃より検討を始め、当時は河水統制事業と称して調査を行っています。国においても物部川開発の必要性を認め、昭和12年度(1937年)に永瀬と神母木に量水標を設置し、河川流量の調査を始めました。現在の永瀬ダム地点の計画洪水流量は3,300m3/sですが、これは昭和13~20年(1938~1945年)までの水文資料の解析の結果です。昭和21年(1946年)に至り、「物部川ダム期成同盟会」が結成されて、物部川ダム建設に猛運動を重ねました。本県関係者のなみなみならぬ事務的、政治的運動が功を奏し、洪水調節・農業・工業・上水道の用水源の確保、補給を図ることを目的にする河水統制事業として認められました。昭和25年(1950年)からは国(建設省)の公共事業費による河川総合開発事業と改称され、「治水」、「かんがい」、「発電」の多目的ダムとして物部川3ダム構想がまとまり、永瀬・吉野・杉田の各ダムは次々に完成していきました(永瀬ダムは昭和32年完成)。
物部川ダムは本県における国土総合開発法に基づく河川総合開発事業の第1号です。
永瀬ダム完成後の管理については、物部川水系の全流域が高知県にのみ属する関係上、河川管理者である県知事に引き継がれることになり、実務は「永瀬ダム管理事務所」が県河川課の出先機関として昭和32年度よりこれにあたることになりました。永瀬ダム建設の全体事業費は最終的に39億3,900万円で、うち高知県(民)負担分は13億6,200万円(34.58%;現在の企業局のアロケーション率)でした。
なお、永瀬発電所建設(工事費17億6,500万円)は県営の電源開発事業であったので、永瀬ダムと永瀬発電所を合算した総工事費は57億400万円かかりました。電源開発事業(永瀬発電所、吉野・杉田ダム、発電所建設)の詳細はここでは割愛しますが、最下流の杉田ダムの完成は昭和34年であり、これにより、途中、洪水被害等による工期延長、工費増大があったが、約9年あまりに及ぶ物部川総合開発事業は完了しました。
昭和26年1月9日の起工式に集まった車の列(当時の林副総理も参列)
永瀬ダム工事鳥瞰図(右岸から)
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